ツルタです!かつて中世最大のルビーとされていた52カラットの宝石は、実はピンクトルマリンだった…!という歴史的なトルマリンの足跡を追います。
ヨーロッパ最大級のルビー
1748年、スウェーデンはロシアとデンマークの両方と戦争の危機に瀕しており、この戦争には莫大な費用がかかると考えられていました。
政府官僚のカール・グスタフ・テッシンは10月24日、武力紛争の資金調達が必要になった場合に備えて、「偉大なるルビー」の価値を正しく評価しておくことを提案しました。
この石は、ヨーロッパ最大級のルビーと言われ、以前から質流れしていたことで有名だったのです。
模型の作成
その価値を測るため、ルビー(実際はピンクトルマリン)の模型を作ることが決定されました。
宮廷宝石商のF・ベルクは、翌日模型職人を連れてくるように命じられ、赤い蝋で模型を作りました。
宝石商は原石がカットされるものと思い込んでいて、そのために模型を作ったのだといいます。
さらに鉛で2つ目の模型を作り、ベルクの石の色や特徴の説明と一緒に宝石細工師のヨハン・フェイヒティングに送りました。
フェイヒティングは3つ目の模型を赤いガラスで作り、それを36x32x22 mmのファセット・ペア・シェイプにカットしたのです。
女帝エカテリーナ2世への贈り物
戦争の影響もあり、王室は緊急に資金を必要とするようになりました。
1762年にスウェーデン王グスタフ3世のいとこであるエカテリーナ2世がロシアに即位すると、両国の関係をより良くする機会が訪れます。
1777年の夏、グスタフ3世はサンクトペテルブルクのエカテリーナ2世を1ヶ月間訪問しました。
グスタフ3世の訪問は、ちょうどエカテリーナが即位して15年目の記念日と重なっていたのです。
エカテリーナはダイヤモンドをふんだんに使った華麗な衣装を身に着けていましたが、立派なステッキも持っていた。
このステッキの持ち手には大きな立て爪のダイヤモンドがセットされ、真珠の板の先には450個のダイヤモンドがセットされた房飾りまで付いていたのです。
グスタフ3世が素晴らしい宝飾品に目を奪われると、エカテリーナはそれらを贈るといいました。
とんでもない太っ腹ですね。
ただし、この贈り物はグスタフ3世にとってジレンマとなりました。
グスタフ3世は、同等のお返しになるようなものを自分が持っていないことが気がかりだったんです。
1777年6月26日付けの手紙で、弟のカール公爵にも宝飾品の贈り物について伝えています。
「多くのダイヤモンドを含む、極上の豪華な贈り物を受け取るだろう」と書いてありました。
そこでグスタフ3世は、王冠にすえられた淡い赤色のルビーを思い浮かべるようになったのです。
ただ、王冠は国王の所有物ではなく、国王の意思で贈り物にするわけにもいきません。
国王というとなんでも自由にできそうですが、実際はそうでもなく、王冠の宝石を動かすには法務・財務・行政を司る評議会の許可が必要だったのです。
しかし、結果としてグスタフ3世はその手続きをしませんでした。
「エカテリーナが即位して15年目の記念日に宝石を身につけたい」と評議会に言えば、合法的に宝石を受け取ることができたかもしれませんが、宝石をすぐに動かしたかったのでしょう。
弟のカール公爵は宝石を入手し、信頼できる運び屋を使って迅速にサンクトペテルブルクに送りました。
エカテリーナ2世はこの贈り物に感動し、その時以来、この石は正式にロシア王室の宝石となったのです。
謎が残る宝石
この石がいつ、誰によって、現在のラズベリーのような形にカットされたのか、また、この石がいつ、どのようにしてフランスに渡ったのかは、今のところ不明です。
この宝石がどこで採掘されたかもわかっておらず、フェルスマンがビルマ産という説を唱えているのみで、それ以上の調査はまだ行われていないのです。
第一次世界大戦中、シーザーのルビーは他のロシア王室宝飾品とともにサンクトペテルブルグからモスクワのクレムリンに移され、現在も常設展示されています。
不思議な運命をたどったピンクトルマリンですが、エカテリーナ2世にとっては特別な宝物だったんでしょうね。
天然石好きが高じてstoriaという石屋さんにお勤めすることになった関西人。主に仕入れとデザインを担当していますが、最近は写真撮影も勉強中。これまでに買付にいった国はブラジル、中国、タイなど。特技はどこでも眠れること。
コメント
最近トルマリンの記事がなんか多いですね
そうですね、そろそろ次の話題にいきます!